16

 月明かりが、バルコニーを照らしている。
 なぜか理由も知らず、テッドは自分がここにいるのに気がついた。

 さっきまで、何かを……憶えていたのに。
 何を……?

 木の板を踏む足音がして、テッドは顔を上げた。
 月を背に、アルドが立っている。
「テッドくん、どうしたの? 夜は冷えるから、中に戻ろう?」
「ああ……」
「エレノアさんの依頼も無事こなしたし、明日は本拠地に帰るって。フンギさんの魚料理、また食べられるね」
「依頼……、そうだったな」
 リーダーと一緒に俺たちは、文書を届けるためにメルセトに来たんだ。
 ハインズとクープに、手紙を渡して……それからどうしたんだっけ?
「あれ、この苗……」
 アルドはテッドの手にあった苗に、目をとめる。
「ペチュニアだね。今はつぼみだけど、明日には花が咲くんじゃないかな。強い日差しを好む、暖かい地方の植物だから、群島でもきっと元気に育つと思うよ。このつぼみは青いから、青い花が咲く。気温さえ高ければ、次々と花を咲かせてくれる。……でも」
 アルドは手のひらを広げて、つぼみを覆った。
「花びらは薄くて、雨に弱いんだ」
「雨なんて……」
 降ってないだろ、
 そう言おうとして、アルドの手が濡れているのに気づく。
「あ、あれ……」
 テッドは頬に、手をあてる。
 なんで俺は、泣いてるんだろう……
 わざと力を込めて、頬をぬぐう。
 泣いてるところなんて、見せたくなかったのに。
 アルドに背を向け、顔を上げる。
 心地よい夜の風が、頬をなでていく。
 中天にかかる月は明るい。
「そういえば……こんな満月の夜だったな」
「……何が?」
 テッドは月を見上げたまま、
「俺が、旅に出た夜さ。一人で、焼けた村を後にして、山を降りた。受け継いだばかりの紋章は、暗闇の中で赤い光を放っていて……、でも、怖くはなかった。この紋章を宿していれば、きっと誰かに会えるって、そう思ってた……」
 でも、その誰か……って、
 テッドは首を横に振った。思い出せない。
 顔を上げると、アルドの笑顔が、そこにある。
「……なんだよ?」
「うん、テッドくんがこうして、昔のことを話してくれたのって、初めてだなって」
「……そうだったか?」
「そうだよ」
 言われて、そうかも知れない、と思う。
「そろそろ戻ろう。明日も早いし」
 アルドが先に立って、バルコニーを出る。
 右手に意識を重ねれば流れ込んでくる、紋章の記憶。
 なぜ俺はそれに今まで、気がつかなかったのか。

   俺が祖父から受け継いだように、
 俺もいつか、この紋章を誰かに渡すときが……来る。
 そのときまで俺は、この紋章と、生き続ける。

「紋章も、その記憶も、俺だけのものじゃない。……そうだよな」

「テッドくん、何か言った?」
 アルドが振り向く。
「いや、何でもない。行くぞ」
 閉じた扉の窓ごしに、テッドは一度だけ、月を振り仰ぐ。

 ただ、伝えたかったんだ。
 この紋章に連なる、誰かに。

   テッドは微笑み、前に向き直る。
 窓から差し込む光が、廊下を青に染めている。
 満ちる月を背に、テッドは歩き出す。



 
  
   
    

あとがき

 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
 

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